Caring Love CD お証し

 

<1.支え愛~Caring Love>
神様は人の始めにアダムを創られました。そして一人でいるのは良くない、そうおっしゃってイブを創られました。私達は互いに愛し合い、赦しあい、支え合う者として創られたのではないでしょうか?
しかし私達人間は贖い主の存在なしには、罪ある者、不完全な者であり、アガペー(利害なしに捧げ尽くす愛)を持っていませんから、自身の力だけでは、真の支え愛を実行することができません。
自身の罪を認め、さらに悔い改め、救い主に従っていく中で、初めて愛を実践する者と 変えられていくのです。人を愛し、人の為に生きるということは、何かすごいことをするという意味ではなく、神の御心を知り、そのことを喜び、人に伝えていくことなのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(マタイ福音書3章16節)
神様は私達人間一人一人にこのことを伝えることを託されたのではないでしょうか。
人の持つ愛で飢え乾きを持つ方々の心を愛で充たして差し上げることはできませんが、 捧げ尽くす愛~アガペーをお持ちの方がおられること、そのお方を信じることで、その愛に満たされるということを、それぞれが与えられたいろんな賜物でお伝えすることができます。
これこそが究極の支え愛(Caring Love in Christ)なのです。                   

「支え愛の輪が広がっていきますように」この思いを胸に、私のできる方法「歌うこと」で真実の愛をお伝えして参ります。

 

<2.愛すること>
人は誰もが愛されたいという思いを持っています。そして同時に人を愛したいという思いも持っています。ところがそれを実践することは時に、簡単ではないことがあります。
イエス様はおっしゃいました。「あなたの隣人を愛しなさい」と・・・それが簡単なことではないから、

そうおっしゃったのではないでしょうか? 
ところで隣人とは誰のことなのでしょうか? 仲の良いお友達なのでしょうか?

はたまた愛する家族でしょうか?              
イエス様が、私達を愛して下さったから、私達も愛し合うことができるのです。

イエス様が私達のところに近づいて来て下さったから、手当をして下さったから私達も隣人のところに行くことができるのです。イエス様がロバに担ぎ上げて下さったから、介抱して下さったから、

今こうして生かされているのです。
私達は、道端に倒れていた旅人です。イエス様だけが罪ある私達に近づいて来て下さいました。

イエス様だけが私達を癒して下さいました。イエス様だけが私達を罪の中から引き上げて下さいました。

そして神の家族へと連れ戻してきて下さいました。完全に治るまで介抱して下さり、このイエス様の大きな愛の故に、この愛に触れた時に、私達も助けを求めている人の隣人になることができるのです。
自分の力で人を愛することはできません。心の扉を開け、光であられる方をお迎えし、空っぽの両手を差し出し、「私は何もない者です」と叫ぶ時、心の闇は光で充たされ、その光を愛として隣人に差し出すことができるのです。
私は愛のない者で、両親を愛することができませんでした。でもイエスキリストに出会い、変えられたのです。愛のない自身を認め、真の恵みを受け、新しくされ、自分には愛がなくとも光に満たされ、隣人である両親を愛することができることを知ったのです。
自分の力では近づくことさえできない難しい隣人にどのように愛を示せば良いのか、その見本を示して下さったのがイエス様なのです。心の扉を開けてみて下さい。                    

あなたの心が光で充たされその時、「愛すること」が始まるのです。

 

<3.Just the way you are ~ありのままで>
ありのままでいること・・・怖くありませんか?                                 自分の姿を心の鏡で見た時、恐ろしくなるのは私だけでしょうか?
心の鏡には、見えて欲しくないものがはっきりと映ります。そんな時、たいていの人は、それを隠そうとしたり、どうにかしようと思うのではないでしょうか。
こうした思いが高じると、どんどん自身を追い詰めていきます。                      現実とはかけ離れた理想の自分を作り上げようとしていくからです。
以前からコンサート前になるといつも喉の調子が悪くなり、違和感、乾燥感、軽い痛み、果ては声嗄れに悩まされ、受診することが多くなっていました。もともと虚弱体質で、体調管理が難しく、喉の不調もそうしたことから来ているとばかり思っていました。
そんなある日のこと、コンサートツアー中にいつもの違和感等が襲ってきていて、恐れでいっぱいになり、そしてツアー後半に入った時、ついに声が出なくなってしまいました。              

現地のお友達のシンガーの人が駆けつけて下さり、代わりに歌っていただいたり、歌唱動画を投影したり、蚊のなくような声でお話しをさせていただきながら、何とか続けておりましたが、最後のフルコンサートの時、パソコンがフリーズし歌唱動画投影さえできない状態になってしまいました。   

何もかも奪われたような絶望感が襲いました。
あまりの恐ろしい事態に、全身は震え、あろうことか「声をいただけないのであれば、私を消して下さい」そう祈ってしまいました。結局ピアノ演奏をしたり、最後には画像のないまま、CD音を流したり、いらして下さった方々に大変失礼なことをしてしまいました。
その夜は自責でほとんど眠れず、朝方うとうとした時に夢を見たのです。夢の中で私は鳥になっていました。でも羽が1枚もないようなハゲ坊主のとても鳥とは思えない姿。

足もくちばしも何かに縛られたように動かせない、さえずることでもできず、そのみじめな姿でありながら逃げることもできず、まるでさらし者・・・「ああ、これは昨日の私」そう思いました。
うなされながらコンサートの時と同じように「私を消して下さい」そう祈ってしまいました。
その時、声が聞こえたのです。「どんな姿になろうとあなたは鳥です。私がそう言う」          という声が。「どんな姿になっても」この言葉が私の心をとらえました。                  良い者にならなければ、いつもそう思っていて、必死だったことを思い出しまた。
では良い者になるとはどういうことなのでしょうか・・・                            人の中にあって「良い者」という定義、それは人から素晴らしい者として評価される存在です。しかしそのような存在になれる人はごくごくわずか、ではそうない人は良くない者なのでしょうか?いいえ、そうではありません。神様は私達一人一人にご計画をお持ち下さり、「大切な存在」「尊い者」としてお創り下さったのです。
神様のご計画は人知を超えたもので、私達人間には思いもよらないことなのです。 

私のように適応障害の者が福音歌手になるなど、誰が想像できたでしょうか。             人の目に良い者となろうとするのではなく、神の目に良い者として創られた者であることを知る時、失敗への恐れは消えありのままの自身を受け入れることができるのではないでしょうか?
人の目を気にして、恐れに身を縮め、一生うつむいて生きて行くのか、「私の目にあなたは尊い」とおっしゃって下さる神様に信頼し、ありのまま生きて行くのか、選び取りは私達一人一人に与えられているのです。
この夢の後この歌が与えられ、恐れでいっぱいになると天を見上げお力をいただき、長年苦しんでいた本番前恐怖による喉の不調が起きなくなったのです。

 

<4.天国で待っていて>
私は金銭的にはとても恵まれた家庭で育ち、ピアノがほしいと言えば数日後には自分の部屋にグランドピアノがありましたし、欲しい物を聞かれても、思いつかないほどでした。
両親は確かに私を愛し、育ててくれましたが、その愛には条件がありました。
ありのままの自分を捨て、両親の望む通りの人になる、というものです。
兄に障害があって、両親が兄に持てなかった期待、その分も背負って生きてきましたから、私は心を病み、大人になってからは、両親とは心の距離を大きくとって生きてきました。

ところが両親共に認知症になってしまい施設に入り、私がケアーすることになったのです。施設にいた母はうつ病を併発し食事が摂れなくなり、亡くなる前に11ヶ月間入院しました。毎日のように 母を見舞っている内に、母といろんな話しをしたり3時間だけ点滴を外していただき、車いすの母と一緒にお出かけしたり、その内にだんだん母を見舞うことが楽しくなってきました。

そして母が亡くなる少し前に、「本当にありがとう、そしてごめんね」そう言ったのです。
母は私が子供の頃、私にしたことを覚えていたのです。
その時私はもうとっくに母を赦していたことに気づきました。
やけどの痕を見ても、体が震えなくなっていました。

そして、もう一つ、わかったことがありました。
母は、5番目の継母に育てられ、戦中戦後を生き抜いた厳しい父に仕え、障害を持った息子を抱え、ずっとずっと前から病んでいたのです。唯一私に自分の感情をぶつけ、全ての期待を私に 持たなければ生きてこれなかったのです。

神様は私達親子を憐れんで下さり、この2つのことを私に伝えるために、11ヶ月間という尊いお時間を下さり、人には絶対にできない和解をさせて下さり、私と母は本当の母娘になれたのです。今は一人施設に残った父に寄り添い、一日でも長く生きて欲しい、母にしてあげられなかった分も尽くしたい、心からそう思い仕えています。
人には絶対できない御業、「和解」をさせていただき、両親との関係は180度変えられたのです。